前回、夜と朝の考え方の違いについて自分の思いを書いた。
「自制心」というワードが出た。

「自制心」についてGoogleで検索をかけると、関連キーワードとして「鍛える」だとか「トレーニング」がついて回る。
「私は自制心がないから失敗してしまう」といった悩みを持つ人が検索するのだろう。

前提として私に「自制心」というものはほとんど存在していないだろう。

一人息子であり、母方では初孫、父方では最後の孫として可愛がりに可愛がられた私はあまりにも自分勝手でマイペースだろうと思う。
そう思ったのも大学を卒業した頃くらいにやっと気づいたくらいで、つい最近の話だ。

母に「あんたは反抗期らしい反抗期がなかった」と言われた。
そりゃそうか。やりたいことだけやって自由にさせてもらっていたから、反抗する理由がない。

社会人としてあるまじきだが、「やりたくないことはやらない」を通してきた。
関わりたくない人や興味のない人と二人きりになっても無理して話すこともない。
自分に嘘を吐かないことを自然とモットーとしていた。
ここで大事なのは嘘を吐かないのは「自分」が対象であることだ。
私は自分を自分で可愛がっているのだ。自分が可愛くてしょうがない。

自分がやっていること、思っていることが社会的な「正」とは思っていない。
それは社会的に見て、第三者から見て「誤」であり「悪」であってもいい。
自分から見て「正」であれば「正」だから。
もちろん時間の経過に連れて「正」に見えていたものが「悪」に見えることもある。
ただそれは自分が変わっただけ。

人に興味が無いというのもよく考えたらそこからくるかもしれない。
自分が「正」なのだから、他は大抵「悪」に見える。
「悪」に時間を割くのはもったいない。
コメントだとかレビューだとか心底どうでもいい。
自分が良いと思ったら良くて、悪いと思ったら悪い。唯それだけの事だ。
それを直接言うことも無いし後から書くこともない。

「誰かと食事」というイベントも苦手だ。
本当にその時食べたいものが食べられるかも分からないし、自然と相手に合わせてしまう。
出張だとかで昼飯を一緒に食べないと行けないイベントが偶に発生する。
出張は別にいいが、このイベントがどうも嫌いだ。
大前提として、私は仕事の日に昼飯を食べない。説明するのも面倒だからついていく。
出張先だからと息巻いて店選びをする。
私はすぐ終わってほしいと思っているのでコンビニだとかそんなんでいい。
「近くに店がないから」と言って予め買ってくるタイプの人だと少し嬉しい。
その場合「昼食べないんですよ」で終われるから。
食べたくもない人と食べたくもないものに昼休みを費やして、2日分の食費と同額くらいを払わされる。しかも仕事で。この時間も時給発生してほしい。
ここで「誰かと食事」イベントを進める私は「自制心」が働いている。
自分に嘘を吐いているのだ。

このイベントを回避するには会社勤めを辞めるしか無い。
その力は私には無い。
私が無力であり続ける限り、「自制心」は働き続ける。

自制心を鍛えないかわりに、自分に力をつけることが本心を尊重する第一歩となる。